諸堂紹介



北辰妙見菩薩

当山にまつられている北辰妙見菩薩とは北極星を象徴とした、つまり北極星を神格化した菩薩です。星の中でもっとも優れているといわれており、また、妙見とは『妙なる視力』つまり事の善悪や真理をよく見通すという意です。その為か、眼病守護の菩薩として、また学問の菩薩としてまつられております。国土を擁護し、災いを除き、幸を得せしめる開運の菩薩である。わが日蓮宗では日蓮聖人が宗門隆盛を祈っているとき、天から大きな明星が降りてきたといったいわれから、日蓮聖人との関わりが深く、妙見菩薩をまつられている日蓮宗寺院が多くあります。

当山にまつられている妙見菩薩(通称妙見さん)は同じ日蓮宗の『日本三大妙見さん』として知られている能勢の妙見さんと同じ木で彫ったものが能勢に三体安置されており、そのうちの一体を授かり、妙見堂というお堂を建立し、『川名の妙見さん』と親しまれたのが浄昇寺の始まりとなっています。

  



三十番神

三十番神というのは、日本国中に祀る三〇の神々が、一ヵ月三〇日の間、毎日、順番に国家と人々を守ることをいいます。三十番神には様々な三十番神がおられますが当山の三十番神様は日蓮聖人が信仰なされた『法華経守護の三十番神』様です。

 



鬼子母神

鬼子母神様は昔インドの王舎城の夜叉神の娘でカリティモと呼ばれていました。大人になるにつれ段々と美しい女性となり五百人ものお子さんに恵まれたそうです。しかし、カリティモ(鬼子母神さま)は暴虐な性格だったため人間の子供を拉致してきました。それに悩んだ人々はこれを恐れてお釈迦様に相談しました。お釈迦様は自分の過ちに気付かせようとしてカリティモの悪い心を悔い改めようと考え、そしてカリティモの不在中に一番下の子を隠しました。カリティモは大いに驚き、なげき悲しんでお釈迦様に子供の行方を尋ねました。そのときお釈迦様は五百人の中のたった一人を失ってそれ程悲しむのに、数少ない子を取られた親の悲しみは如何ばかりか解るであろうといさめられました。このときカリティモは自らに非を認め、自分の悪事を悟り、拉致してきた子供たちをお返しし、もう二度と子供をさらわないことをお釈迦様にお誓いしました。そして尊い教えである法華経に帰依しました。その後、安産子育ての神様となり、又、法華経を信仰する人々を守護する神様でもあります。

 

 


行学院日朝上人

行学院日朝上人は応永二十九年(1422年)五月五日に伊豆でお生まれになり、わずか八歳という若さで出家され行学二道(修行と学問)に精進されました。四十一歳のときに身延山第十一世法主となられ、身延山の整備拡張や発展の基礎を築き、関東一円に四十余もの新寺を建立、更には宗門統一に尽力されました。ある時日朝上人は過酷な修行や過労から眼病を患い、両眼失明という危機にさらされましたが、それを自身の至らない点だと思い、更に精進を続けられましたところ経力により眼病は快復されました。その後、明応九年六月二五日、七九歳の生涯を閉じられました。その亡くなる際も、『眼病で悩む方がいるならばその方を守護して眼病を平癒させる』という願を立てられました。その後も眼病守護の神様、又、日朝上人は止暇断眠の行者であったことから学問の神様と人々に広く親しまれています。当山も眼病平癒のお寺として今日に至っております。

 



水遊号

この神馬は、日清日露戦争で二度にわたり大陸に派遣され、その戦火の弾丸の雨から無事帰還したお礼として、一緒に戦火をくぐりぬけられた中区入江町の中澤中尉が、その愛馬である水遊号を奉納されました。その水遊号が亡くなった後もその木像をまつり境内に今も遺影が残されています。その戦火をくぐりぬけ、生き抜いてきた水遊号だからこそ、災いを避ける神馬として親しまれております。






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